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森本千絵のパクり疑惑論で出たコラージュの違法性について

タイトル詐欺な。Open ブログに出てきたコラージュ作品を販売する事の違法性について。 パクりなんて法的に何の意味も無い話題はどうでもいい。まあ法的には訴えないと分からないけどさ。 [quote font="program" width="auto" source='Open ブログ: ◆ 森本千絵のパクリ' enable_child_shortcode_="" ]【 追記 】 「著作権が切れているぞ」 というコメントが何度か来ているが、すでにコメント欄で説明済みです。この件に疑問がある人は、コメント欄を読んでください。 【 補説 】勘違いしている人が多いので、補足的に説明しておく。今回の事例では、「他人の作品を利用したこと」自体が悪いのではない。著作権切れの作品を利用することは、何ら悪ではない。たとえば、下記の絵画。これは、ルーブル美術館 にある画像の一つをトリミングしたものだ。これは著作権切れの画像なので、これを本サイトに掲載することには、何ら法的な問題はない。しかしながら、これを「私が描いたものです」と称して、誰かに販売したならば、それは詐欺という犯罪になる。嘘をついて金を取ったからだ。それはいわば、ただの黄銅鉱を「黄金です」と称して、高額の金を取るのと同様である。完全な詐欺。森本千絵の場合も同様だ。彼女が原作の絵を利用すること自体は、何ら法的な問題はない。コラージュであろうがなかろうが、部分でなく全体を利用しようが、そのこと自体は、問題がない。しかしながら、これを「私が描いたものです」と称して、ユーミンに売りつけて、金を取ったことは、詐欺という犯罪に当たる。嘘をついて金を取ったからだ。それはいわば、ただの黄銅鉱を「黄金です」と称して、高額の金を取るのと同様である。完全な詐欺。実際、ユーミンには、次の被害が生じている。 ・ 金を払う価値のないものに、金を払わされた。(ゴミを高額で買うハメになった。) ・ ゴミであることがバレたので、ジャケットを絵の魅力で売ることができなくなった。 ・ 絵の購入金額には、著作権の対価としての金も入っていたのに、著作権を得られなくなった。このうち、最後の点について説明しよう。一般に、ジャケットなどのイラストの販売では、著作権込みで対価を払う。というのは、同様の絵画を、他の人が使うことは認めがたいからだ。普通のネット上の絵画なら、1枚数千円ぐらいで購入できるが、多くの人が利用するので、排他的な権利はない。しかし、ジャケットの場合には、他の人が利用すると困るので、排他的な権利を得るために、著作権込みで購入する。したがって、その金額もかなり高くなり、数十万円ぐらいになるのが普通だ。(ごく簡単なデザインでさえ数万円となる。数千円レベルではない。)というわけで、ユーミンは、数十万円の金を払って、この絵画の著作権を購入したはずだった。ところが、実際には、この絵画のイソギンチャクの部分には、森本千絵の著作権はない。したがって、ユーミンが森本千絵に数十万円を払っても、この絵の排他的な独占権は得られない。このイソギンチャクの絵を使って、誰かが商品に利用したとしても、ユーミンは何ら文句を言えない。本来ならば、排他的な独占権があるはずだったのに。結局、ユーミンはゴミに大金を払わされた。黄銅鉱を黄金だというふうに言われて売りつけられた。こういう詐欺の被害が発生しているのだ。ここでは、他人の絵画を利用したこと自体が悪いのではなくて、それを自分のものだと偽って売りつけたことが悪いのだ。この違いをきちんと理解しよう。[/quote] これはなるほどと思った。確かに、嘘はよくないし違法で詐欺という言葉もある。が、違和感も感じた。

「私が描いたものです」と称するのは詐欺なのか

私が作りました という表現がどこまで含むのかの話。私が(この物に関わる全てを1人で)作りました という意味なのか。それが一般常識なのか。 俺はそういう一般常識は無いと思う。漫画で作者何々ってあってもアシスタント普通に居る。「私がこの作品に関わる全ての工程を1人で作りました」と言っていたのであれば別。 表現がどこまで含むかの話だから、著作権の話ではない。

ゴミなのか、絵の魅力が無くなったのか

お前はそう思うんだろうなお前はな(AAry

排他的な独占権とは何か

CDのジャケットって絵全体でなく、個々のパーツの排他的な独占権まで求めているのか。求めているのであれば素材集という物は存在しなくなる。 青空の背景を素材集から買っても、当然同じ素材を買った別の人も同じ青空を使うことが出来るからだ。 もちろん素材集を一切使わず、全ての要素をあなたが作って下さい。というクライアントの依頼があれば別だけど、CDのジャケットはそれがアタリマエなのか。

ネットリンチで毎回ある事だけど、全体で評価をするという事が出来ず個々の要素を自分に都合のいい前提でしか話せない典型的な例。 この図書館はあの有名な建築家が作ったんだよ→作ったのは大工さんですー。って言う小学生のいじわるクイズと同レベル。 私が描いたものです という言葉を素材すら使わず私が1ピクセル1ピクセル打ち込みましたという意味としたり CDのジャケットは個々のパーツにまで排他的な独占権を求めているという前提を作ったりしているのが違和感の正体だ。